独立への道 エミリオ君の場合
念願のスペインからの独立を果たし、初代大統領になったエミリオ君。
1869年3月にカビテ州カウィット町で生まれたエミリオ君は、アンドレス君とは対照的に、とても裕福な家庭に育ちました。26歳の若さで町長に就任するなど、早くから指導者としての才能を発揮していたようです。
町長になった1年後の1896年に秘密結社カティプナンによるフィリピン独立革命が勃発し、各地に支部を展開していた組織の長アンドレス君から「キミ見所あるで。ワイらの仲間にならんか?」と誘われました。
武器不足を理由に一度は誘いを断ったエミリオ君ですが、最終的にカティプナンの戦いに参加することに。徐々に激戦地と化していくカビテ州で、アンドレス君らが奇襲中心のゲリラ戦に頼る中、優れた戦略家のエミリオ君は、彼のいとこが率いる「マグダロ隊」をうまく使って目覚しい活躍を見せ、着実に戦果を挙げていきました。
こうして革命運動は順調に進んでいるように見えたのですが、カティプナンの内部に少しづつ亀裂が入り始めます。
カティプナンは、エミリオ君の「マグダロ」とは別に「マグディワン」というカビテ支部を置いていたんですが、この2つのグループがいがみ合いを始めてしまい、協力を拒否する事態に。しょうがないので、アンドレス君自らカビテに出向いて仲裁に入ったんですが、中立の立場であるはずのアンドレス君が、自分の身内が指揮している「マグディワン」に肩入れしちゃったりして、事態をますます悪化させちゃうんですね。
また、エミリオくんの縄張りであるカビテで、あたかも自分が「王様」であるかのように振る舞うアンドレス君の傲慢な態度も、「自分たちがカティプナンの戦いを支えている」と考えているエミリオ君たちには面白くなかったようです。
そもそも、貧しい環境に育ち、それ故に体験してきた社会の不平等にピリオドを打つべく革命運動に身を投じた庶民派のアンドレス君と、裕福な環境に育ち、その環境を脅かす者たちを追っ払うべく革命運動に参加したエリート派のエミリオ君は、戦う相手は同じでも根本的な部分で分かり合えてなかったのでしょう。
ああ、こんな時にホセ君がいてくれれば! と嘆いたところで仕方ないですね。はい。わかってます。憶測はやめます。
アンドレス派とエミリオ派 - カティプナンはこの2つの勢力に分裂し、最終的に政治的能力に長けたエミリオ君が組織を手中に収め、革命政府に移行しました。一方、勢力争いに敗れたアンドレス君はカビテ州インダン町で捕まり、治安妨害と反逆の罪で処刑されてしまいました。
実は、エミリオ君は「やっぱ死刑は可哀想です。追放程度にしましょう」と、一旦は減刑を命じたんですが、メンバーらに「このままヤツを生かしといたら、今に仕返しされちゃうよ?いいの?」と説得され、結局減刑の命令を引っ込めちゃったんだそうです。
その後もエミリオ君率いる革命政府とスペイン政府との戦いは続きましたが、徐々に苦戦を強いられてきたエミリオ君は、1887年12月にスペイン政府と和平協定(ビヤック・ナ・バト協定)を結び、赦免と80万メキシコドルと引き換えに革命政府を解散して、香港に亡命することにしました。
香港でひっそりと一生を終えるかに見えたエミリオ君ですが、その後米西戦争が勃発。「一緒にスペインを追っ払てくれたら、フィリピンを独立させてやる」とのアメリカの言葉を信じ、祖国に舞い戻りました。そして1898年6月12日に念願のスペインからの独立を果たし、翌年1899年1月にフィリピン共和国(第1共和国)の誕生を宣言したのでした。
そのわずか2年後に、アメリカにあっさりと裏切られて大統領の座を追われちゃうことになるなんて、勝利の美酒に酔いしれていたエミリオ君には想像すら出来なかったことでしょう。
1899年2月4日夜、アメリカ軍の哨兵が一人のフィリピン人を射殺。これを受けて第1共和国がアメリカに宣戦布告し、米比戦争が勃発しました。
エミリオ君の指揮の下で激しい戦いが繰り広げられましたが、結局多くの戦死者を出した末に鎮圧され、さすがのエミリオ君も1901年3月にとうとう捕まってしまうことに。
こうして第1共和国はもろくも崩壊し、アメリカの支配が始まったのです。
エミリオ君を大統領の座から引きずり下ろして主権を握ったアメリカは、1902年に自治領政府の成立を認め、1935年にはマヌエル・ケソン議員を初代大統領に据えてコモンウェルズ政府に移行。真の初代大統領であるアギナルド君の存在は、清々しいほど完全にスルーされてしまったのでした。
第2次世界大戦が勃発し、今度は日本に支配されたフィリピンは、1943年に親日のラウレルさんを大統領に迎えて独立(第2共和国の誕生)。とはいっても、独立とは名ばかりで、実質的には日本がコントロールしていたので、国民の反感を買うだけで終わっちゃいました。
日本が敗戦した途端に2度目の独立が取り消しになり、再びアメリカ領に戻されてしまうことに。一方、エミリオ君は日本軍に協力した罪で牢獄に入れられてしまいます(後に恩赦で釈放されました)。
1946年7月4日、フィリピン独立法に基づいて再び独立。第3共和国が誕生し、長かった植民地時代にようやく終止符が打たれました。
それ以来、フィリピンの独立記念日は7月4日とされていましたが、1962年にマカパガル大統領(汚職問題で今話題のグロリア・アロヨ前大統領(現パンパンガ州第2地区代表下院議員)のお父さん)により、エミリオ君がスペインから独立を勝ち取った6月12日に戻されました。アメリカに完全スルーされていたエミリオ君の存在と功績が、やっと認められるようになったわけです。エミリオ君よかったですね~。
それから2年後の1964年2月6日、エミリオ君は波乱に満ちた人生の幕を閉じました。94歳でした。
