フィリピン独立への道

独立への道 アンドレス君の場合

社会的平等を求め、独立運動を力で推し進めた「フィリピン独立の父」アンドレス君。

1863年11月にマニラ市トンド地区の貧しい家庭に生まれ、働きながら独学で知識を得てきた苦労の人。独自の革命哲学の下に、ホセ君が民衆の意識革命を促すために結成した「ラ・リガ・フィリピーナ」に参加しましたが、非暴力を良しとし、スペイン官警にヤラレっぱなしになっているのを歯がゆく思っていたようです。

そして1892年、肝心のホセ団長が捕まってしまうと「やっぱホセ団長の甘っちょろいやり方じゃ埒アカン!この世は力や!力が全てなんや!理想だけのダルマ状態で、ヨソモンにいいように小突かれとっちゃ革命なんかできっこないんや!」と考え、秘密結社「カティプナン」を結成。各地に支部を展開して徐々に勢力を拡大し、1896年8月に「フィリピン独立革命」を起こしました。

列強国による植民地での資源の搾取や原住民の奴隷化が当たり前だった時代に「話せばわかるのだ。暴力はいけないのだ」などと主張するホセ君は、血の気の多いアンドレス君の目には確かに甘っちょろく映ったかもしれません。でも、もし彼が焦って先走らなければ、ホセ君はまだ生きていて、後から登場する逸材エミリオ君とも出会い、3人で協力しあって最も効果的な革命運動を展開できたかもしれない-。

ま、これはあくまでも憶測に過ぎません。憶測をいくら並べてもしょうがないので、ここらへんでやめときますが、人の素質を見抜くのが得意だったホセ君は、その危なっかしい性格を看破し、サンボアンガのド田舎でカティプナンの行く末を心配していたようです。「我輩的には、武力行使は最後の手段。まだ今はその時機じゃないのだ。勝手に暴走しそうなアンドレス君がリーダーじゃヤバイのだ」と。

結局、アンドレス君の武力による抵抗が元で、親愛なるホセ団長が処刑されてしまうのですが、「甘っちょろい」非暴力主義を貫いたホセ君の死によって一気に独立への機運が高まり、アンドレス君の革命運動が加速するという皮肉な結果となりました。

そして、後からカティプナンに参加し、共に戦った同志エミリオ君と革命の目的の違いから対立し、自分が作った組織から追い出された挙句、1897年5月10日にかつての同志らの手で消されてしまうという、これまた皮肉な結末を迎えるのでした。

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